今回の投稿は、10月6日に神社フェイスブックページへ投稿した記事の転載です。
また宮司の個人的な部分を多く含む内容となっております。
おはようございます 義經神社宮司 楡田美浩です。
今日の投稿では2つの広報誌を取り上げ、私の原点を見つめ直す、極めて個人的な内容ですが、ご一読頂けますと有り難く存じます。
先ず画像の1・2は、
母方の祖父「前田瑞行」(元 科長神社宮司・神柱宮名誉宮司 平成15年1月帰幽 享年97歳 神職身分特級)が、平成8年に鎮座地である宮崎県都城市の広報誌に掲載された当時の物であります。
内容としては、神主人生長年の宿題であったペリリュー島での戦没者慰霊祭を奉仕し得たことの記事です。
掲載当時、ホントしょーもない堕落した大学2年生でした私は、祖父がこんなにも大きな想いを抱きつつ神主として勤めていたことを初めて知り、とてつもない衝撃を受けました。
この後、親族の勧めもあり、神職階位直階講習会受講、國學院大學神道学専攻科進学と神主の道を歩んで行くのですが(この時点でも、まだまだ世間知らずの鼻たれ小僧でしたが……)、この時の広報誌と、その後の祖父との折々の会話が、私の人生の中で大きなターニングポイントとなりました。
以降、都城に帰省し祖父の家に遊びに行くと、朝は決まって科長神社まで2人で歩いて行き、朝のお勤めを奉仕しましたことが、懐かしく思い出されます。
そして画像3・4枚目は、今般のハンガンカムイ義經公ご神像奉斎220年記念特別拝観を平取町広報係の方が特集してくださり、広報誌に掲載されたものです。
私としては、特別拝観に行きたくともかなわなかったご高齢の方などに、広報誌を通してではありますが皆さんのご先祖様もお支え頂いて、この度の全面修復に至ったことを知って頂きたいとリクエストしておりましたところ、掲載のような記事となったところです。
宮司2年生の私と、数えて96歳まで現役の宮司として奉仕した祖父とでは、個人としての重みがあまりにも違い過ぎますが、宮司という職をお預かりする立場としては「まだまだ若輩ですから等と、言い訳は出来ない」、2つの記事を眺めながら深く感じました。
義經神社の今後については、恐らく私の2代あとで、当神社の原点である「アイヌ文化と神道的文化の融合の象徴」たるハンガンカムイ義經公の御心に添い奉る神社運営と環境整備が「一定の形になるのであろうな」と、思っています。
その日が出来るだけ早く訪れるよう、更に精進致して参る所存であります。
また、その最中には、祖父の慰霊祭奉仕後、私共親族で行えていないペリリュー島での戦没者慰霊祭を、必ず私がお勤めさせて頂く、その誓いを新たにしております。
私の神主としての原点と、当神社の今後について深く思い致す機会ともなった広報誌掲載、このことにご尽力下さった多くの方に、厚く御礼申し上げます。
千里の道も一歩から、更に精進致します。