義經神社について
義經神社について
ご祭神ハンガンカムイ義經公は、1159年に河内源氏の源義朝の九男として生誕しました。幼名を牛若丸と呼ばれ、京都鞍馬寺にて学問武芸に励み成長します。
その後、鎌倉幕府成立の最大の功労となる源平合戦で活躍しますが、鎌倉方と対立し朝敵とされ、1189年、今の岩手県平泉で自害したとさるのが歴史上の通説です。
文武に秀でており多くの貢献を残しながらも、実兄頼朝公の側近らによって追われるご祭神の数奇な運命は惜しまれてきました。
多くの人々から愛された義經公への思いは、判官(ほうがん)贔屓(びいき)(弱い立場に置かれている者に対して同情を寄せる)という言葉の語源となり、歌舞伎『勧進帳(かんじんちょう)』を含め様々な芸術作品の題材となったほか、数々の伝説を全国各地で生み出しました。
その義經伝説の一つがこの土地にも残っています。平泉で生き延びた義經公が紆余曲折を経てピラウトゥル(ウとルは小文字)平取に辿りつき、アイヌと互いの文化を共有したとするものです。
そして時は流れて江戸時代の末期、北方調査(北海道)の折り、この地を訪れた幕吏近藤重蔵翁は、コタンのリーダーと交流をもち、何か心に残ることがあったのでしょう、江戸に帰り神田の仏師に木像を作らせ、翌1799年この地に御神像として贈ります。
これを受けたコタンのリーダーはアイヌには無い風習に戸惑いながらも、重蔵翁から贈られたこの御神像を聖地ハヨピラ(神社の丘づたい東方)に安置しました。これが義經神社創建の起源となります。
以来100年ほどアイヌの人々によって御神像が護られ、その後移住してきた大和の民(本州より移住してきた人々)の神主等も力を合わせて奉斎し今日に至っています。アイヌにとっても、時代に翻弄された義經公の生き様は、心に響くものがあったのかもしれません。
このようなご祭神のご由緒と、同じく時代に翻弄され過酷な生活を強いられたアイヌの歴史も直視しつつ、神社を護り続けたアイヌや大和の人々の心に生き続けた義經伝説を「多文化共生と多様性尊重のシンボル」として後世に伝え、ご祭神ハンガンカムイ義經公と御神縁を結ばれた皆様の「心の拠り所」でありたいと願い、共生と尊重の実践に努めている未来志向の神社が現在の義經神社であります。