義經神社

義經神社・義経公園のあゆみ

義經神社・義経公園のあゆみ

源義經にまつわる伝説は源義經公がこの地を訪れ、アイヌの人々をこよなく愛し、農耕や舟の作り方、操法、機織り等を伝授したため、アイヌの人々が義經公を慕い「判官様」と呼び、転じて「ポンカンカムイ」として尊崇されたと伝えられることに始まります。

その後、義經公は従者を引き連れ大陸に渡るためこの地を去るときには、現社殿より北東500mほどの風光明媚な高台にて甲冑、弓矢を祀り武運長久を祈願し、これらを形見として残し立ち去ったと云われ、アイヌの人々はこの丘を「ハヨピラ」(武具の崖)と呼び、神聖な祈りの場として守り続けられたと伝えられます。

一方でハヨピラの語源としては、その切り立った急峻な地形を「武装した・崖」(hayoku-piraハヨクピラ)と評したとされる説と、「メカジキの吻・置く・崖」(hay-o-piraハヨピラ)つまり加持祈祷を行う場所とされる説等複数の解釈が存在します。

御神体

義經神社の歴史の一節を紐解くと、寛政10年(1798)に近藤重蔵が東蝦夷地を探検の際、この地のアイヌの人々が判官義經公崇拝の情が深いことを知り、また当地が蝦夷地創業の地であるところから、大仏工法橋善啓ほうきょうぜんけいに義經公の木像を作らせ、平取の地(ハヨピラの丘)に寄進安置し御神像としたのが当社のはじまりとされています。

御神像は高さ30cm程で裏面には、「寛政十一年四月巳未二十八日、近藤重蔵 藤原守重 比企市郎衛門 藤原可満」と彫刻されており、台の裏面には、「江戸神田住大仏工法橋善啓作」と刻まれていることから、現在の東京都神田で作られたものと考えられます。

この御神像は明治20年(1887)に起こった暴風雨による被害をはじめ、幾度か祠もろとも流れおちたものの、不思議にも沙流川の河口付近で発見され、聖地に戻され安置されたと伝えられており、この御神像の無事を知った人々は、神意のいたすところであろうと驚異の眼を見張ったと語り継がれています。

当時のピラウトゥㇽコタン(平取町本町付近)※1の長であるペンリウクが御神像、社祠の護持に尽力したことが記録されており、偶像崇拝を認めないアイヌの世界観において、源義經の木像を御神像として、かつアイヌの信仰とは異なる神道の神社を、当地のアイヌが守り続けたことは、幾重にも驚きがあります。

明治9(1876)年2月に村社に列せられ、明治11(1878)年にはペンリウクの計らいで、英国人女性旅行家「イザベラ・バード」が訪れ、崖をよじ登り、外国人女性として初めて御神像に出会ったと『日本奥地紀行』で世界に発信したことからも、当地のアイヌの人々が調和や融合といった多様性の中に生きていた、ともとらえることができます。

明治16(1883)年9月には小松宮彰仁親王御台臨の栄を賜り、明治34(1901)年には祠を現在の社殿とハヨピラの中間に位置する丘陵に転座し、7坪5合の(24.8㎡)の社祠が建築されました。

明治37(1904)年11月13日、北海道庁長官が指定した神饌幣帛しんせんへいはく(神にささげるぬさと絹)供進使ぐしんしの参向する神社となり、次いで大正9年(1920)には、現在の境内敷地に27坪7号5勺(約90m2)の荘厳な社殿が完成し、さらには昭和36年には現社殿(47坪155m2)が建築され、周囲には神木が生い茂るなか、今なお勇壮な姿を見せるに至ります。

義経公園は神社境内を中心に後背地一帯を総称しますが、その起源は明治のころから、八田満次郎、安田権兵衛両氏の大構想のもと整備が進められたことにはじまり、ペンリウクの後を受けた社掌 山㟁守之氏、北島兼太郎氏らが、サクラ、モミジ、ツツジなどを植栽し現在では鎮守の森として地域の人に憩いの場として親しまれております。

※1 ピラウトゥㇽコタン
「ピラウトゥㇽ」は「崖(がけ)の間にある所」という意味のアイヌ語です。現在の平取(びらとり)の語源といわれ、場所は沙流郡平取町本町地区のうち主に義經神社周辺にあたります。松浦武四郎(安政5(1858)年)の記録によると当時沙流川沿いで最も大きなコタン(31戸160人)でした。

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