義經神社

義經神社について

義經神社

義經神社の起源は、幕府の役人・近藤重蔵※1による祠の設置と御神像の奉祀にあるとされています。寛政10(1798)年にハヨピラの断崖上に小祠が建てられていたことが、木村謙次※2『蝦夷日誌』に記されています。

高さ約30センチの御神像の背面には「寛政十一年四月己未二十八日 近藤重蔵・藤原守重、比企市郎衛門・藤原可満」と刻まれています。また、御神像の台座の裏面には「江戸神田住大仏工法橋善啓作」とあり、江戸(現・東京都神田)で制作されたことがわかります。

ハヨピラは、アイヌの人文神オキクㇽミに関する伝承地としても知られています。オキクㇽミは、舟や罠、漁撈、アットゥㇱ織などの技をアイヌに授けた神であり、アイヌの先祖とされる存在です。アイヌの伝承のなかには、義經が蝦夷地に渡り、オキクㇽミの婿となったのち、彼の留守中に秘蔵の宝や書物を持ち去ったという物語も伝えられています。

一方で、義經がアイヌに農耕や舟の操縦、機織りなどの技術を教えたとする伝承も残されています。また、近藤重蔵らが東蝦夷地を巡検したときには、アイヌが義經を崇拝している様子を目にしたと伝えられています。

義經像背面

写真:御神像の背面に刻まれた文字

松浦武四郎※3やイザベラ・バード※4の記録によれば、ハヨピラの祠は険しい崖に建つ簡素な社であったといいます。武四郎の日誌(1858年)には、御神像が当時ハヨピラではなく門別の会所で祀られていたとあり、のちに再びハヨピラへ戻されたと推測されています。また、当時の平取の首長ペンリウク※5が、門別に安置されていた義經像を密かに背負って運んだと伝えられており、地元アイヌの尽力も見逃せません。さらに、バードの『日本奥地紀行』(1878年)には義經像の存在が明確に記されており、明治初期には祠が実際に維持されていたことが確認できます。

明治9(1876)年に村社となった後、明治20(1887)年頃には、暴風雨によって祠と御神像が沙流川へ流失しましたが、後に発見、再建されました。その後も明治期には再建と倒壊を繰り返し、やがてハヨピラと現在の敷地の中間にあたるポンスマウンコに祠が建てられました。明治34(1901)年には、ハヨピラから数町下流の丘陵上に新たな社祠(約25㎡)が建立され、明治37(1904)年には北海道庁長官が指定した神饌幣帛しんせんへいはく(神にささげるぬさと絹)供進使ぐしんしの参向する神社となりました。大正9(1920)年には社殿が完成し、さらに昭和36(1961)年には現在の社殿が造営され、遷座されています。

併設の義經会館は平成2(1990)年に改修され、「義経資料館」として義經に関する資料を展示する施設となりました。

御神体
※1 近藤重蔵
寛政10(1798)年3月29日に「松前蝦夷地御用」として蝦夷地の開発と防備のための蝦夷地巡検隊の一員として派遣された人物です。現在の平取町本町地区にあたる地域で義經公を大切にしているという情報を聞き調査に訪れ、真実と判明したため義經公の木像を奉納しました。
※2 木村謙次
近藤重蔵の蝦夷地巡検に医師として随行した人物です。木村謙次が執筆した『蝦夷日記』には幕府による北海道調査の詳細な記録が記載されており、平取町を訪れたのは寛政10(1798)年11月11日から17日となっています。
※3 松浦武四郎
松浦武四郎は江戸時代の弘化2(1845)年~安政5(1858)年の間に北海道内の詳細な調査を行い(沙流川内陸まで行ったのは安政5(1858)年)、地図や人口などの記録を残した探検家・地理学者です。「北海道」の名付け親としても知られています。義經神社発祥の地、つまり義經像が納められた祠が最初に置かれた地である「ハヨヒラの図」を描き残したことから当神社としても重要人物と考えています。
※4 イザベラ・ルーシー・バード
イギリス出身の女性旅行家です。明治11(1878)年に来日し、8月23日から26日まで3泊4日間平取町本町地区のペンリウク宅に滞在しました。滞在中に地域住民の病気の治療にあたったこと等に対する感謝の念から義經神社に案内されました。
※5 ペンリウク
江戸時代末期から明治中期にかけて沙流川流域のアイヌを代表する人物でした。早くからアイヌ民族の教育の必要性を認め平取町初の小学校誘致に尽力した他、日本語を話すことができたため日本人や外国人の調査を受け入れる等活発な交流を行っていました。

PAGE TOP